| 氏子町一覧 | |||
|---|---|---|---|
| 赤城元町 | 赤城下町 | 通寺町 | 横寺町 |
| 箪笥町 | 細工町 | 北町 | 中町 |
| 南町 | 払方町 | 二十騎町 | 南山伏町 |
| 北山伏町 | 市ヶ谷山伏町 | 南榎町 | 弁天町 |
| 東榎町 | 早稲田町 | 早稲田鶴巻町 | 山吹町 |
| 中里町 | 天神町 | 矢来町 | 築地町 |
| 改代町 | 牛込水道町 | 西五軒町 | |
※世帯数及人口数は大正9年10月1日国勢調査の統計に依る
赤城元町
自一番地-至三十六番地、世帯数百三十一、人口六百七十八人
昔時は等覚寺門前、同内門、松源寺門前、天徳院門前及改代町飛地を合わせたもので、明治二年四月、等覚寺門前を赤城明神表町と改称し、松源寺天徳院の両門前を赤城町と改称し、同五年七月に赤城の神居があるため、又右の二町及改代町飛地、社寺地を併せて今の名称となった。当町と赤城下町との間を北へ下る坂を赤城坂といい三十四番地と東五軒町との間を北へ下る坂を、相生坂と呼ぶ。赤城神社の隣に明治八年一月十五日創立の市立赤城小学校及清正公堂がある。その他町会として大正十一年十一月創立の、「赤城元町同士会」があって事務所を同町二十八番地の竹内方に置く。本会は旧赤城会、赤城元町会の二会を併合したものである。
赤城下町
自一番地-至三十六番地、世帯数百三十一、人口六百七十八人
昔時は等覚寺門前、同内門、松源寺門前、天徳院門前及改代町飛地を合わせたもので、明治二年四月、等覚寺門前を赤城明神表町と改称し、松源寺天徳院の両門前を赤城町と改称し、同五年七月に赤城の神居があるため、又右の二町及改代町飛地、社寺地を併せて今の名称となった。当町と赤城下町との間を北へ下る坂を赤城坂といい三十四番地と東五軒町との間を北へ下る坂を、相生坂と呼ぶ。赤城神社の隣に明治八年一月十五日創立の市立赤城小学校及清正公堂がある。その他町会として大正十一年十一月創立の、「赤城元町同士会」があって事務所を同町二十八番地の竹内方に置く。本会は旧赤城会、赤城元町会の二会を併合したものである。
通寺町
自一番地至-七十七番地、世帯数四百八十四、人口二千二百八十八人
地名の起こりは極めて簡単で、牛込御門通りの寺地であった所から名付けられた。旧時は、片田舎に見るような狭小な一市街であったが、明治二年四月、付近の寺地及安養寺、養善院、三光院、正就院の門前を併せ、五年七月又組屋敷その他の土地を合わせて現在のものとなった。先年まで保善寺(一名獅子寺)十四年前府下東中野に移ったと言われる寺院が九番地にあって、寺内に、戯曲加賀見山旧錦絵の尾上岩藤草履打の場に登場する忠婢お初、本名阿薩の墓と称するものがあった。同町の町会協和会は、明治三十七年五月の設立で事務所を一番地の年番櫻井方に置く。公設物として三十番地に牛込郵便局(明治二十三年七月一日建設)がある。また娯楽場として九番地に寄席牛込亭(明治十年十月設立)、十一番地に常設活動写真文明館が(明治四十五年一月建立)ある。
横寺町
自一番地-至六十八番地
世帯数四百三十、人口千九百四十四人、通寺町の横町にある所からこの名を付けた。明治二年四月朝日町及龍門寺、正定院、長源寺の門前を、同五年七月又寺地及士地を合わせたもので、龍門寺前の坂を「朝日坂」と呼んでいる。町内に尾崎紅葉臨終の故宅、漢医浅田宗伯の邸がある。一番地には東京市公設神楽坂公衆食堂(大正九年四月十七日開業)その他三十七番地に牛込中等夜学校(明治四十年四月開校)及牛込幼稚園(明治四十三年四月開園)等がある。町会としては共友会(大正七年五月設立)があり、事務所は二番地柘植方にある。
箪笥町
自一番地-至四十四番地、世帯数二百十八、人口九百五十八人
往昔幕府の具足奉行、弓矢奉行、同心屋敷であったのを正保二年町地に改め、武具箪笥を司るものがここに住んだので、地の名となった。明治五年七月に付近の士地を合せて現在の広さになった。四十二番地に元和三年の建立である、弁天堂で有名な南蔵院がある。その前の坂を、弁天坂とも袖摺坂とも乞食坂とも呼ぶ。牛込区役所は十五、六、七番地に誇る石造二階建の洋館(明治二十六年十月竣工)である。四十一番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正十年十一月二十五日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった。町会としては共盛会(明治三十七年五月設立)があり事務所を五番地村上方に置く。
細工町
自一番地-至二十七番地、世帯数百五十七、人口七百三十九人
この町は、今は全く痕跡が無いが、往昔の天龍寺の境内にある。同寺は明和三年の火災にあって、四谷の北方、追分へ移されたのでその跡を幕府の御細工同心に与へて町屋敷とし、御細工町と称し、明治五年同町続きの士地、開墾地及納戸町のうちで裏大門と呼んだ所をこの町へ合併し、御の字を省いて今の町名となったもので、今でも俗に天龍寺前といい、西方の横町を裏大門と呼んでいる。公設物として二十三番地角に牛込電話局が新設された。町会清和会は(大正十一年二月設立にして十五番地)鈴木方に事務所を置く。
北町
自一番地-至四十一番地、世帯数百七十四、人口八百六十六人
町名の起りその他ほとんど、南町と同様である。元は天龍寺の跡で北の組屋敷であったため、北御徒町と称していたのを明治四年六月御徒の二字を省いて、現在の町名とした。往時当町の西端は小出信濃守の下屋敷で、四十一番地に太田南畝(蜀山人)の故宅があった。町内の市谷愛日尋常小学校は明治十三年七月の創立である。町会として同士会は二十二番地金子方に事務所を置く。
中町
自一番地-至三十八番地、世帯数七十四、人口四百四十五人
町名の起りその他は南町と同じである。南の組屋敷と、北の組屋敷との間に位置していたので仲御徒町と呼んでいたが、明治四年六月御徒の二字を省いて現在の名称となった。
南町
自一番地-至三十五番地、世帯数八十四、人口四百十三人
往時天龍寺の境内であったが、明和三年の火災後、その跡を、幕府の徒組屋敷としたもので、俗に南御徒町、中御徒町北御徒町と呼ばれている。明治四年六月南御徒町に、富士見の士地を合わせ、同時に御徒の二字を取って町名とした。
払方町
自一番地-至卅五番地、世帯数百六十九、人口八百九十八人
ここもまた天龍寺の境内であったのを寛永年中に分割して官収し、幕府の払方納戸同心の宅地となったので、この名称になった。元禄九年市街に列し、明治四年六月付近の士地、開墾地を合わせて、俗に元天龍寺前と称し、本町と佐土原町三丁目との間を富士見馬場と呼び佐土原町三丁目との間の坂を鰻阪と呼ぶ。
二十騎町
自一番地-至三十六番地 、世帯数百〇八、人口四百九十五人
ここも、往昔の龍八寺境内で後幕府先手与力二組の屋敷となったが、その一組が十名だったので、俗に二十騎町と呼び、明治四年旧町名を取って今の名とした。
南山伏町
自一番地-至二十番地、世帯数百〇九、人口五百十九人
かつて修験者が多く住んでいたが、享保八年の火災にあって外に移り、当時もなお山伏町、裏山伏町と称してきたが、明治四年にわかれて南北二箇町とした。大正十年十二月設立の、南山伏、北山伏市谷山伏、三ヶ町合併の町会「三山伏会」は事務所を南山伏町八番地三橋方に置く。
弁天町
自一番地至百七番地、世帯数六百二十八、人口三千三十四人
往時は宗参寺境内の市店であったが、元禄十一年市街に列し、寺内に弁天堂があったので弁財天町と称した。明治二年四月、多門院、千手院、淨輪子、鳳林寺等の寺等の寺地及その門前を合し、五年七月又旧幕府先手組屋敷(俗に根来組二十八組宝龍寺組という)を合して現在の町名となったもので、弁天堂後を流れている小川を本無川といい、坂に宝龍寺坂がある。町内には、弁天堂、一番地に宗参寺がある。同寺の開基牛込宮内少輔勝行一家の墓、山鹿素行の墓等がある。
東榎町
自一番地至六十一番地、世帯数四百二十八。人口千八百八十二人
もとは済松寺領である。正保年中この地に十囲(約120cm)もある、老榎があったので町の名としたのだと言われている。明治二年四月付近の寺地開墾地等を合せ、同五年七月又士地を合せて現今の町となった。済松寺(十三番地にあり)は、もとは大友氏の邸宅で、のちに法印大橋隆慶がここにいた。町の東南角に、本無川という小川がある。なお町内には、有名な大刹済松寺及宗柏寺釈迦如来(五十七番地)を始め宗柏寺の後五十六番地に両社稲荷社がある。七番地に壮大なる日清印刷株式会社(明治四十年四月設立)があり、町会の親交会は大正三年三月の設立で、三十九番地島田方に事務所がある。
早稲田町
自一番地至六十五番地、世帯数二百三十七、人口千〇七十人
往昔は早稲田村の内であった。正保三年榎町が済松寺領となり、後に市街地となった時、村名を以て町名とし、明治十二年四月牛込早稲田北町を合せて、牛込早稲田町となった。早稲田北町とはもともと一橋家の別邸及士地であったのを明治五年七月新に町名を付けたものである。十五番地大養寺門前には落馬地蔵があり、町会として明治卅六年四月設立の「交信会」があって、事務所を二十七番地横山彦四郎方に置く。
早稲田鶴巻町
自一番地至四百九十三番地、世帯数二千六百二十一、人口一萬二千五百七十三人
もとの牛込早稲田村の一部である。明治二十四年三月当区に編入して町名を付けた。この村は初め牛込村の内に属し、小名を早稲田といい、後で別村となったもので、次第に町並地となり、本町はその残っていた所で、鶴巻とは、早稲田村当時の小名を取ったものである。当地付近はもともと茗荷畑と稲田で、西は穴八幡山麓に達し、北は関口目白台まで、一望際涯なき広漠たる田野であったが、明治十五年十月二十日戸塚村下戸塚に東京専門学校の開校されたのが発展の端緒となり、その後明治三十五年早稲田大学と改称されると同時に、山吹町から大学門前に通ずる新道が開穿され、同年十月十九日その開通式を挙げた当時にはまだその左右一面は稲田で、一間の人家も無いような状態であったが、その後就学生は年を追って増加し、水田、茗荷畑は次第に開拓されて次第に人家も稠密し、遂に今日のような繁華な一大市街地となって、早稲田の名物であった、茗荷畑もまた何時しかその面影を失うに至った。なお町内には元赤城神社及天祖神社を初めとし明治三十四年十二月創立の早稲田実業学校、娯楽場として明治四十三年四月建設の早稲田劇場等がある。
町会としては大学大通の両側に組織される商工会(事務所五十九番地石川方)、早稲田座付近より成る鶴正会(事務所二五一)、野村方鶴巻町郵便局裏通方面の田鶴会(事務所三〇〇番地島田方)、早稲田實業学校付近の鶴進会(事務所五十九番地加賀谷方)があり、互に町内のため親睦を謀りつつある。
山吹町
自一番地至三百十八番地、世帯数千五百六十五人、人口七千百四十四人
往昔の中里村の内にある。延保三年済松寺領となり、延享二年市街に列して、中里村町と称したが明治五年七月付近の士地を合して、今の称に改めたもので、町の南に蟹川、町の西北に中川がある。三十三番地には明治四十四年四月開校の市立山吹尋常小学校あり、娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館及寄席大和亭(八十一番地に明治卅二年五月建設)の外貸席八千代倶楽部(五十三番地にあり大正五年三月の建設)があった。当町は神楽坂に劣らぬ殷盛な町である。町会として大正七年七月設立の衛生組合協志会があり事務所を百四十番地早田方に置く。
中里町
自一番地至二十九番地世帯数百九十二、人口八百二十九人
往昔の牛込村の内にある。正保三年済松寺領となり、後次第に市店を開き延享二年市街に列し、明治五年七月、近傍の士地開墾地を合せ、俗に上中里と呼ばれている。町会の中里会は、二十七番地和倉温泉場に事務所を置く。
天神町
自一番地至九十一番地、世帯数四百〇三、人口千九百〇六人
寛永の頃には大友義延大橋龍慶が相次でここに住し、正保三年済松寺領となり、後市店を開き、龍慶の邸内に天神の社があったので、町名とした。明治五年七月旧先手同心大縄張地を合併したのもので、俗に町の東を矢来下、町の西を馬の組と呼んでいる。九十一番地芳心院の辺は由比正雪の宅址と呼ばれ、正雪櫻、正雪井戸等と称するものがある。赤城神社の付属社北野天満宮は七十二番地に鎮座する。五十二番地に明治四十年六月開校の私立岩佐女学校があり、町会として明治三十八年十月設立の義立館三十九番地田中方にある。
矢来町
自一番地至六十三番地、世帯数千〇〇二、人口五千百十二人
旧酒井若狭守の下屋敷で、俗に矢来下と称し、明治初年になってもまだ町名が付かず、矢来或は末寺町などと呼ばれて来たのを明治五年七月、十二番地から六十三番地に至る、先手組持筒組屋敷その他の士地を合併して、旧来の呼名により矢来町と定めたもので、矢来の起りについては旧時酒井邸の周囲には土手を築き、矢来が結んであった為だといわれる。一番地から十一番地までの間は酒井家の下屋敷であったが、東南の一角は柳澤摂津守の上屋敷の跡である。もとは一円に酒井邸であったのを中古柳澤氏へ割譲したもので、矢来町の酒井邸に属する部分には、旧殿、中の丸、山里等の字がある。旧殿は同家御殿の跡、中の丸は中の丸御殿の跡、山里は庭園の跡である。明治十年頃まで今の三番地の辺は畑地で、八、九番地は山林、竹藪、一番地は宅地、七番地は今なお墓地で、十一番地は池であった。近年まで十一番地は矢来倶楽部の庭園で、日下ヶ池を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚等の、由緒ある建物や、古跡などもあり、将軍家の御成も度々あった名園であったが、今は当時を偲ぶ面影もない。矢来倶楽部は九番地にあり、明治二十五年頃の設立で、町会としては矢来懇和会(大正三年十一月二十三日設立事務所三番地山里三十七号蓑田春堯方)矢来町睦会(大正十年九月設立事務所三番地中ノ丸杉崎方)中矢来有志会(大正七年八月設立事務所矢来町三山里八十一号清水次郎方)等がある。
築地町
自一番地至二十二番地、世帯数二百三十五、人口千七十六人
旧昔沼地を埋めて市街地を開いたことから築地片町と称し、正保慶安の間は済松寺頷となり、牧村氏の女祖心禅尼の茶料に与えられ、後牧村氏に属して、寺社奉行の治下であったが延享二年町奉行に属し、明治五年九月近傍の士地を合せて今の名称となったものである。今でもなお俗に赤城下片町と呼んでいる。町内には元、赤城、朝日、喜昇の三緞帳芝居等があって相応に賑やかな町であったが、今はいずれも廃絶して、赤城座跡には、聖巴拿那協会、朝日座跡には、勝田といふ材木商等が出来て往昔の面影もない。町会として「築友会」がある(大正二年九月設立事務所を築地町七番地林方に置く)。
改代町
自一番地至四十七番地、世帯数三百五十四、人口千五百三十人
本町も沼地を埋築したもので、初め徳川氏開府の後、雉子橋内外の民家を、牛込徒町に移し、後改て代地をここに与えたため、改代町と呼ぶ。昔は改の字を「替」に作ったといわれている。はじめ、町内に田中寺、傳久寺、長寿寺、妙福寺の四箇寺院があったので俗に四軒寺町と呼ばれていたが、今では田中寺、伝久寺のみとなって、「二軒寺町」と呼ばれている。町会として明治卅三年十二月設立の親睦同盟会があり(事務所は卅五番地大澤方)に置く。
